Sクラスのパフューム「パフュームアトマイザー」の開発未来学者のサビーネ・エンゲルハルド。

車の「存在意義」が変わり始めている。とくに、2020年初頭に発生した新型コロナウイルスによるパンデミックの影響で、移動手段としか捉えられていなかった車のパーソナルな空間に注目し、改めて興味を持ち始めた人も多くいるだろう。

また、車が「マインドフルネス」としての役割を果たしていることも事実だ。『Forbes』によると、テクノロジーの進歩により、ヘルスケアの提供は、病院という環境から、個人の健康状態をモニターするスマートホーム、スマートウェアラブル、スマートカーへと移行しているという。例えば、人々は1日平均40分以上の時間を自動車の中で過ごしていて、米国では1日あたり約1時間とも言われている。そこで目を向けられているのが車の空間で、メーカーはドライバーや乗客の身体的、そしてメンタルヘルスを全体的に改善する方法を模索しているのだ。

これまでヘルス・ウェルネス・ウェルビーイング(以下HWW)はニッチなものと思われてきたが、テクノロジーの進化により、今後5年以内に主流になると言われている。コンサルティング会社のフロスト&サリバンでは、「コロナウイルスによる車内のヘルス・ウェルネス・ウェルビーイング機能装備の加速」を紹介し、「過去10年、自動車業界は、電動化など環境「グリーン」に積極的に取り組んできた。今後10年は、車内のHWW機能「ピンク」がより注目されるかもしれない」と、自動車業界での注目度の高さを示している

マインドフルネスと車の空間

マインドフルネスに関連する事例は、「車のデザイン」にも大きく関わっている。人々はストレスを発散できずに溜め込むことが多くあるが、車での「通勤時間」は、ストレス対処のための十分な時間と空間が確保されているので、問題解決のための貴重な場所として確信していると、スタンフォード大学の医学部で助教授を務めるパブロ・エンリケ・パレデス(Pablo Enrique Paredes)などが発表した論文『Evaluating In-Car Movements in the Design of Mindful Commute Interventions: Exploratory Study』では述べられている

こういった通勤時間を活用できるような車でのデザインは、すでに各メーカーで実践されている。キア(Kia)とヒュンダイ(Hyundai)はドライバーの感情状態に反応するAIを搭載したコンセプトカーを開発し、アウディ(Audi)はイタリアのフィットネスメーカーのテクノジム(Technogym)と提携して車内を移動式のフィットネススタジオに変える「ウェルネスモード」をデザインしている

そして、「嗅覚」(人間の鼻にある嗅神経細胞は約500万個あり、嗅覚は感情や心身の健康に大きな役割を果たしている)に目を付けたのがメルセデス・ベンツ。匂いもストレスを軽減させるためやマインドフルネスと関連するひとつだが、同社では心地よい香りを作り出す独自のプロダクト開発を進めている。

メルセデスが提供する「サードプレイス」

同社では、香りを車内に放出するシステム「パフュームアトマイザー」を展開し、季節や場所、気分やシーンに合わせた13種類の香りを揃えている。例えば、ゆったりとリラックスできる香りの「Bamboo Mood」、森の奥に広がる神秘的な空間へと誘われるような「Forest Mood」、海辺の道を心地良い潮風に吹かれながら走り抜けるような爽快感のある「Pacific Mood」など。このパフュームアトマイザーにより、車の中での時間をより落ち着いた特別なものにできる。

このパフュームアトマイザーを開発しているのが、ドイツにあるメルセデス・テクノロジー・センター。社会とテクノロジーの分野における未来学者のサビーネ・エンゲルハルド(Sabine Engelhardt)がその開発を担当している。メルセデス・テクノロジー・センターでは、歴史、文化、技術を理解するという基盤の上に、文化の発展に対するオープンな姿勢を重視し、メルセデス・ベンツグループ全体でオープンイノベーションのアプローチをとっているという。「新しい影響力やコラボレーションに対して、俊敏でオープンな心をもつことが賢明と考えているため、この姿勢が大切です。メルセデス・ベンツ・グループ・リサーチの仕事は、革新的な技術を見つけ出し、その技術が主流になる前に車に搭載することだと理解しています」と、エンゲルハルドは話す。

マインドフルネスと車の関係については、「マインドフルネスは特に、24時間デジタルと繋がっている現代において、幸福感を得るための重要な概念であり、私たちの考えるカーウェルビーング、カーマインドフルネスとは、まず、車を家庭やオフィスに次ぐ、いわゆる「サードプレイス」と捉えることです。このサードプレイスが特別なのは、一種の「総合芸術」としてデザインできるからであり、ホリスティック(全体観的医学)な環境を創り上げます。つまり、美しさで人々を魅了し、調和のとれた身体的・感覚的な体験を提供することができるのです」と語る。

女性として「香りをデザイン」すること

もうひとつ、この「香りをデザインする」というアプローチのなかで興味深いのは、エンゲルハルドが「未来学では、女性という性が重要な役割を果たしている」と話していることだ。「ラグジュアリーは、ロココの時代に女性によって再構築されたものです。ブドワール(女性の寝室)、ファッション、花、香りなど、これらの官能的なものはすべて女性に由来しています。ハーモニーとエレガンスは女性らしさの核心ですし、女性と自然の美しさとの結びつきも強いのです。私が最初に作ったフレグランスは、ベルリンの街角に漂う春の香りをベースにしたもの。非常に調和のとれたフレグランスでした」

また、13種類のパフュームアトマイザーには、メルセデス・ベンツのアイコンである「AMG63」をテーマにした香水もあるが、彼女はここでも「ラグジュアリー」は忘れていない。「『AMG63』を作るとき、車ではなく、AMGというブランドについて考え、メルセデス・ベンツのもつラグジュアリーとAMGの性能のあいだにある「何か」を考えました。そこで、ラグジュアリーとしては、技術的なアプローチを強調する合成成分としてサンダルウッドを選択。性能に関してはジンジャーを採用し、エネルギッシュな香りを表現しました」

「空間のための香りを作るには、その香水がどのくらいの強さで、どのように香るかということが重要」と話すエンゲルハルドは、誕生の裏話も教えてくれた。「そういえば、『AMG63』にまつわる実話であり、笑い話がありますよ。私は香水の量を5%にしたかったのですが、エンジニアはもっと増やしたいと言いました。これは当たり前のことなのですが、私は車内に長く滞在するお客様のことを考えている一方、エンジニアは匂いの強さをテストするのが仕事でもあるので、いくらでも匂いを強くすることができるのです。そこで、私たちは7.5%の量について議論したのですが、私が断ると、彼は突然「6.3%はどうだ?」と言ったんですよね。私は微笑んで、「それでいいよ」と答えました。これがこの香水に関する私の好きなエピソードです」

近未来に必要な「香り」

先述のように車の存在がパンデミックの影響により大きなものになったが、メルセデス・ベンツはそれ以前よりも内装の装備やデザインに、ラグジュアリーや操作性だけではなくウェルビーングの思想をいち早く取り入れた機能が搭載されていた。そのひとつが「パフュームアトマイザー」だったのだが、今後はこのホリスティックなアプローチを向上させていくという。「車内で好きな香水や馴染みのある香水を嗅ぐとどうなるかというと、安心感や幸福感が得られます。これはすべて多かれ少なかれ、潜在意識の中で起こっていることです。例えば、慣れ親しんだ匂いのする部屋に入るときのことを考えてみてください」

車も未来へ向かって進化していくなか、近未来の自動運転「レベル4」以上に求められる「新しい機能」や、そこにふさわしい「香り」とはどのようなものだろうか? 「レベル4以上になると、乗客はより自由な動きを必要とするほか、車内にパーソナルな物を持ち込むようになることで、お互いのコミュニケーションも活発になるでしょう。そのため、車内の安全性について新たなアプローチを考案しなければならないのは明らかです」と、エンゲルハルドは話す。

メルセデス・ベンツでは、そういった近未来の車としてESF(Experimental Safety Car)の取り組みを進めていて、自律走行中の乗客などの安心をサポートするために「Cooperative Car」を開発している。「車内が「移動式のリビングルーム」に完全に切り替わったとき、香りはより遊び心のあるものになり、助手席に乗っている人も安心するので、より動きやすくなるでしょう」

サビーネ・エンゲルハルド(Sabine Engelhardt)

1966年、ドイツ・ヴォルムス生まれ。シュトゥットガルトで図書館学、ベルリンでコミュニケーション科学を学ぶ。1995年、ベルリンのダイムラー(Dimler)の社会・技術研究グループに参加。彼女の車への興味は、「プライベートな場所」かつ「移動できる」という視点に基づいている。洗練された官能的なラグジュアリーのコンセプトを開発する一方で、2006年には超高級車マイバッハ・ツェッペリンのために香りの装置を開発する機会を得る。マイバッハへの導入が成功した後、エンゲルハルドはメルセデス・ベンツのSクラスの香り装置の開発を担当。著名な調香師とともに、車両のためのすべての香りを作り出している。エンゲルハルドにとって香りは、車と運転を「詩化する」ことであるという。

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