©Robert M.Lee

ボブ・リーの愛称で親しまれたロバート・M・リー。2016年1月に惜しまれつつ逝去したハンティング・ワールドの創業者である。その意外とも言えるカーコレクターとしての顔を紹介するうえで避けては通れないのが、ハンティング・ワールドのブランドヒストリーだ。

ニューヨーク郊外、ロングアイランド出身のボブ・リーは、27歳のとき長年の夢であったアフリカへの冒険旅行へと出発。当時から環境保護やアニマルライツを意識していた彼が現地で行ったのが、野生動物を狙う密猟者の一掃である。彼らが仕掛けた罠を撤去するだけでなく、取り締まりにより失業した密猟者たちを自身がアンゴラで設立したサファリツアー会社「リー・エクスペディションズ」社で再雇用し、ガイドとして教育し直したという。社会問題の根幹となる要因を見つけ出し、恒久的な解決策を実行していく先見性は、今でいう持続可能な社会を70年近く前から体現していたのだ。

ボブ・リーが所有するクラシックカーの一部 ©Robert M.Lee

アフリカでの滞在は10年に及び、アンゴラで始まった内戦の煽りを受けてアメリカへと帰国。サファリツアー会社の客用に手掛けていたプロユースのアウトドア用品の開発・販売が、ハンティング・ワールド設立の礎となったのである。ブランドを象徴する“牙のない仔像”のロゴは、幸福や自由、蘇生を表すと同時に、アフリカへの憧憬や自然と野生動物の保護を訴えた意匠。ブランド設立以降も常にかの地への想いがものづくりの根幹にあったことが伺い知れる。

ちなみに、アフリカ探検の頼れる相棒となったのが、ランドローバー・ディフェンダーの原型とも言われるシリーズⅠだ(photo#1)。大きく開けたルーフからボブ・リーが身を乗り出した写真は、ハンティング・ワールドの広告にも使われたことがあるので、見覚えのある人も多いだろう。その後、1972年に独自開発したシグネチャー素材“バチュー・クロス”で世界的なブランドへと成長を遂げたのは周知の通り。

photo#1 ©Robert M.Lee
1962年 アンゴラのカランドゥーラ滝の前で ©Robert M.Lee

あらためて、ボブ・リーのカーコレクターとしての素顔に話を戻そう。希少なヴィンテージカーを蒐集していた彼を熱中させたのが、「コンクール・デレガンス」という世界各地で開催されるドレスアップカーの競技会である。1985年にペブルビーチで開催された大会を訪れたボブ・リーは、“ベスト・イン・ショー”を受賞した1939年製ブガッティ・タイプ57ソーチック・カブリオレに一目惚れし、その翌日には手に入れたという。自身でも2006年に1931年製デイムラー・ダブルシックス50コーシカ・ドロップヘッド・クーペで、2009年には1938年製ホルヒ853 ヴォル・ルーベック・スポーツカブリオレで最高位となる“ベスト・イン・ショー”を獲得するなど、大会を大いに盛り上げた(photo#2)。

photo#2 1990年 ペブルビーチのコンクール デレガンスにて ©Robert M.Lee
ネバダにあるガレージに保管されている1931年製キャデラック 425A ピニンファリーナ

上記のクラシックカーを含めたコレクションは、広大なギャラリーに今も大切に保管されている。そこには、女優のグレタ・ガルボが所有していた1935年製デューセンバーグ“モデルJ”や、オリジナルのスタイルに近いものが世界に2台しか現存しないといわれる1907年製ロールス・ロイス・シルバーゴースト(photo#3)、さらに、パッカード スーパーエイト コンバーチブル(photo#4)といったマニア垂涎の名車が並べられ、まるでミュージアムかのように一台一台専用のスペースに飾られている。

photo#3 1991年 ペブルビーチにて ©Robert M.Lee
photo#4 ©Robert M.Lee

現在も全ての車は細かくメンテナンスのスケジュールが組まれ、劣化を防ぐために数週間おきに走らせるなど、徹底した管理がなされているという。ステイタスの象徴や成功のシンボルとして高級車をアクセサリー代わりにするのではなく、文字通り“愛車”として大切に扱っていたのだ。これは見栄えの良さやデザイン性だけに終始せず、タフな環境化で繰り返しテストを行うなど、プロダクトにおける実用面を重要視した、ハンティング・ワールドの成り立ちにも通ずるものがある。

また、車好きが高じて、幅広い交友関係を築いた。フェラーリの創業者・エンツォ・フェラーリや、アルファロメオ1600スパイダーにプジョー504など、数多の名車を手がけたイタリアデザイン界の巨匠 セルジオ・ピニン・ファリーナがそうである。とくにエンツォ・フェラーリとは、メーカーのトップとユーザーの関係を超えたフレンドシップがあった。若かりし頃、冒険旅行の途中で立ち寄ったイタリアで出会った2人。もし、フェラーリを購入することがあれば、アメリカのディーラーを通さずに直接私に連絡して欲しいと声掛けされたボブ・リーは、その翌年、実際にエンツォ・フェラーリ宛に電報を送り、1956年製フェラーリ250GT ボアノ・コンバーチブル(photo#5)を購入したという逸話も残されている。以降、毎年のようにフェラーリの本拠地であるイタリア・マラネロに直接足を運び、1958年製 410 スーパーアメリカ ピニン・ファリーナ ベルリネッタ(photo#6)などの新たな車を購入するなど、2人の友人関係はエンツォ・フェラーリが亡くなる1989年まで30年以上続いたという。ちなみにフェラーリにはボブ・リーが別注したカラーが存在しており「ロッソ・フィオラノ」または「リー No.5」と呼ばれ現在でも入手可能である。

1994年 モンタナにあるボブ・リーの牧場を訪れたセルジオ・ピニン・ファリーナ氏(左)と ©Robert M.Lee
photo#5 ©Robert M.Lee
photo#6 2台目のフェラーリをイタリアマラネッロの工場に受け取りに来たボブ・リー ©Robert M.Lee

晩年、ボブ・リーを取材したインタビュー記事によると、自らを“偶然のコレクター”と称していたとある。何でも、特定のテーマやターゲットを設けず、本当に自分が好きなものや、家族にとって意味のある一台を手に入れた結果、コレクションと呼ばれる代物になったというのが、その理由だ。事実、本稿を執筆するにあたり、広大なインターネットの海や雑誌や書籍などのアーカイブを大量に保存する都立図書館などをくまなく調べたが、カーコレクターとしての彼を詳しく知ることができたのは、2019年3月に掲載された『Octane Japan』の記事(「気が付けば世界有数のクラシックカーコレクターに」)が唯一と言っていいほどで、あとはハンティング・ワールド社にご提供頂いた雑誌の切り抜きなどごく僅かであった。

1963年 アンゴラのムクッソにて、友人のアブドーレ王子と ©Robert M.Lee

自然と冒険をこよなく愛する一方、執筆活動や大学での講義も行っていた知識人としての顔を持つボブ・リーにとって、大切なコレクションを金額の多寡や希少性だけで測られたくないという想いがあったのかもしれない。何より、周囲にコレクションをひけらかすような性格ではなかったというのが一番の理由だろう。車であれ、ファッションアイテムであれ、長く愛されるブランドの価値というのは、誰かの虚栄心を満たす為ではなく、最高の品質を追求した結果辿り着いた顧客からの信頼という証である。ボブ・リーの寡黙なカーコレクションからは、ハンティング・ワールドというブランドが今なお広く支持される訳が雄弁に伝わってくるのであった。

▪️参照資料:『Octane Japan』「気が付けば世界有数のクラシックカーコレクターに」

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