世界最古のコーチビルダー“マリナー”

イギリスを代表するラグジュアリーブランドのベントレー。そのなかでも特別なモデルにのみ与えられたMulliner(マリナー)のロゴは、彼らのひときわ長い歴史から紡ぎ出された物語の象徴というべきものである。

マリナーの源流を辿ると、1559年にはすでに馬車や馬具を製造・販売するメーカーとして活動していたことが確認できるという。それゆえマリナーは「世界最古のコーチビルダー(馬車製造者)」とも称されるが、時代が馬車から自動車へと移り変わると、彼らは自動車のボディを作るメーカーへと転身していった。

幸い、20世紀初頭の自動車は、エンジンやギアボックスを積んだシャシーは自動車メーカーが生産するものの、ここに架装するボディはコーチビルダーの手に委ねられることが多かった。つまり、マリナーが馬車時代に培ったボディ作りの技術とデザイン性は、自動車の時代になってもそのまま受け継がれていったのである。

新設されたヘリテージセンターに並ぶ歴史的ベントレー。向かって左から1949年マークⅥ、1958年S1フライングスパー、1963年S3、1968年Tシリーズ・マリナー・クーペ。いずれもここクルー工場で生産された。
VWグループ傘下に収まった直後のベントレー。向かって左から2009年アルナージュ、2010年アズールT、2010年ブルックランズ。
ヘリテージセンターには2020年に生産が終わったミュルザンヌや最新のフライングスパーなど、現代のモデルも展示される。

やがて自動車メーカーがボディとシャシーを一体化した製品を作るようになっても、ベントレーのような超高級車だけはボディ作りをコーチビルダーに任せた。そうした時代は1950年代まで続いたが、いよいよベントレーもボディ一体型の製品作りに乗り出すことが決まると、ベントレーやロールスロイスのボディを生産する専業メーカーのような形になっていたマリナーを買収。自分たちの一部門としたのである。これが1959年のことだった。

以来、マリナーは特別なベントレーの内外装を仕立てる業務に専念。ベントレーが2002年に2台だけ制作したステートリムジン(エリザベス女王のために設計・生産されたリムジン。別名“クイーンズカー)”にも、彼らのノウハウは生かされたようだ。

マリナーを支える3本の柱

そうしたマリナーをより強化する方針が固まったのは2019年から2020年にかけてのこと。このとき、往年の名車を現代に甦らせるプログラムのクラシック、1台から10数台程度の特別なモデルを開発・生産するコーチビルディング、豊富なオプションが設定された現行ベントレーの可能性をさらに広げるコレクションの3つをビジネスの柱として、ベントレーのビジネスにより貢献する体制が構築されたのである。

珍しい緑のベントレー・ロゴが与えられたのは2003年コンチナンタルR。これは、わずか7台が生産されたファイナル・シリーズのうち、マリナーが手がけた唯一の個体。

このうちクラシックでは、ベントレー4 1/2リッターにスーパーチャージャーを取り付けてルマン24時間に臨んだ1929年製のブロワーを12台のみ再生産したのに続き、ベントレーがルマンで1929年と1930年に2連勝するのに貢献したスピード6を“再生”するプロジェクトが現在進行中。こちらも12台が生産されるが、どうやら1台あたりの価格は3億円ほどにもなるそうだ。そのかわり、オリジナルモデルに対する忠実度はバツグンで、エンジンやボディが当時と同じスペックで作られるのはもちろん、ボディ外板を保護する役割で用いられていたレキシンと呼ばれる綿の一種も再現するため、もはや世界中を探してもほとんど残っていないレキシン製造用の機械をわざわざ150万ポンド(約3億6000万円)で購入。当時とまったく同じ手法で再生産するほどのこだわりようという。

こちらも完成したばかりのリネージュミュージアムには、ベントレーボーイズが生み出した1929年チーム・ブロワー#2が展示されている。ベントレーはこれをベースに12台の“ブロワー”をコンティニュエーション・プログラムとして新造することを2019年に発表。およそ3億円で発売したところ、即座に完売となった。
ベントレーはVWグループ傘下に入った2002年と2003年にも、スピード8と名付けられたプロトタイプカーでルマン24時間に参戦。2003年には、1930年以来となる通算6度目の総合優勝を果たした。向かって左側が2002年モデルで、右側が2003年モデル。

したがって、我々が見る限り、オリジナルとの見分けはまったくつかない。なかでも、とりわけ私たちの目を引いたのが、コクピット内に設けられたガラス作りの仕掛け。これはエンジンの潤滑油が循環する様子を確認するための一種の計器で、エンジンを始動させるとなかでエンジン・オイルがしたたり出す。その勢いを見てコックを回し、オイルの潤滑量を適切に調整するのだという。その作りの精巧さと繊細さには、オーナーならずとも心奪われることだろう。

ベントレー・オリジナルの6 3/4リッターV8エンジンを眺める。1959年にS2に搭載されてデビューして以来、2020年にミュルザンヌの生産が終わるまで、60年以上にわたって活躍した名機だ。

もうひとつのコーチビルディングも、特別なベントレーをごく少数、作り出すという意味ではクラシックとよく似ているが、こちらは往年の名車ではなく最新の技術を用いたワンオフ・モデルもしくはフューオフ・モデルとなるところが大きく異なる。

ワンオフは1台限り、フューオフは数台から10数台程度が生産される“超”限定車のこと。しかも、一般的な限定モデルとは異なり、エクステリアやインテリアが完全にオリジナル・デザインとなっているのが特徴で、マリナーではこれまでにバカラルとバトゥールという2台のフューオフ・モデルを手がけてきた。

実際には、どちらもW12エンジンを搭載した最新のコンチネンタルGTスピードがベースになっているものの、その内外装の仕上がりを見る限り、ベースモデルの面影は皆無といっていいほど。なお、バカラルは12台、バトゥールは18台のみが生産されるが、どちらも3億円を優に超える価格にもかかわらず、すでに完売しているそうだ。

ベントレー・マリナーがわずかに12台を限定生産したバカラルに腰掛けているのは、マリナー部門の新しい責任者であるアンサー・アリ。忙しい合間を縫って、私たちのインタビューに応じてくれた。

2020年に発表されたバカラルは間もなく最後の1台がデリバリーされるところで、今後はバトゥールの生産にシフトするという。ちなみに、マリナー部門には、納車されたコーチビルディングやクラシックの写真が展示されているが、バカラルもバトゥールも1台1台の仕様は見事に異なっていて、ふたつとして同じ外観のモデルがないことには圧倒された。これこそ、ベントレーが誇るビスポーク・プログラムの賜というべきものだ。

ちなみにビスポークとは「特別にあつらえて作られた製品」のことで、極めて高級なスーツや靴の世界ではよく耳にする言葉。このビスポークをとりわけ得意としているのがイギリスのファッション界であることは皆さんもご存じのとおりだが、イギリスではラグジュアリーカーの世界でもビスポークがさかんに行なわれている。

ビロンギング・ベンテイガは、インクルーシブやビロンギング(いずれも社会から差別を排除しようとする考え方)に対するベントレーの姿勢を示すために制作された特別なモデル。ボディに描かれた29ヵ国の人と風景はスティーヴン・ウィルシャーの作品。ウィルシャーは一度目にした景色であれば何でも克明に描写できる特殊な才能の持ち主でもある。

ベントレーでは、もともと幅広い選択肢が設定されたパーソナライゼーションの可能性をさらに拡大したプログラムを用意しているほか、マリナーならではの装備をあらかじめ盛り込んだグレードを設定。マリナーの世界を身近に感じられるカタログモデルとしてラインナップしている。

ベントレーのシートは最高級のレザーに覆われているだけでなく、カラーやステッチを幅広い組み合わせから選択可能。しかもレザーのカラーは小さな部分まで個別に選べるので、その可能性は無限大といっていい。
ベントレーが用いるのは北欧で生産されたレザー。そのほうが傷が少なく、革が分厚い。しかも雌牛ではなく雄牛のみを使う。イタリアで染色した後に送られてきたレザーは、まず職人の目と手で傷の有無をチェック。その後、コンピューターを用い、傷を避けるようにして正確に裁断される。
ウッドショップの一角。ひとつひとつのパーツを鏡のように磨き上げるには、気が遠くなるような手間ヒマを要する。

今回、われわれはマリナー専属のデザイナーとともに、コンチネンタルGTを自分たちの好みのスペックに仕上げるコンフィギュレーション(顧客の要求にあわせてクルマの内外装を作り上げる作業のこと。作業の過程を視覚化するコンピューター・シミュレーター=コンフィギュレーターを用いるのが一般的)に挑戦した。なお、マリナーに用意されたコンフィギュレーターは、ベントレーの公式ウェブサイトからオンラインで利用できるものよりもさらに精密で、表現力も一段と優れているそうだ。

コンチネンタルGTCマリナーでクルー近郊のカントリーロードを流す。マリナー独自のダブルダイヤモンド・マトリックスグリルがベントレーの華やかさを引き立てている。

もっとも、数100億とおり(!)ともいわれる選択肢のなかから自分の好みを見つけ出すのは容易ではない。われわれの作業も、当初はかなり迷走気味だったが、自分の好きな世界観、たとえばヨットやゴルフなどのホビー、もしくは特定の地域や景色などをテーマとして選ぶとイメージが明確になって、自分好みのベントレーを仕上げるのに役立ちそうに思えた。

マリナー部門には専用のコンフィギュレーターを用意。オンラインタイプのものより、質感やカラーをはるかに精彩に表現できるという。
取材で訪れたわれわれもコンフィギュレーターを用いてオリジナルのコンチネンタルGTをデザインした。コンフィギュレーターを操作する専任のオペレーターから様々な提案やアドバイスを受けることが可能。

こうしたマリナー強化策のおかげもあってベントレーの財務状況は大幅に好転。2018年に最悪の赤字を記録したにもかかわらず、2022年には史上最高となる7億800万ポンド(約1300億円)の黒字を記録したという。

2030年までに電動化を完了

そんなベントレーの今後に控えているのがモデルラインナップの電動化である。これこそ同社にとって第3のブレークスルーにあたるものだが、2020年に発表されたビヨンド100という中期計画によると、2026年までには全製品をプラグイン・ハイブリッドもしくは電気自動車(BEV)にスイッチし、2030年までにラインナップのすべてをBEVに切り替えるという。その過程には、2026年までに5台のBEVをリリースする計画も含まれている。

ベントレーは電動化によって製品のカーボンニュートラル化を図るだけでなく、同社の生産自体がすでにカーボンニュートラル化を完了しているほか、将来的にはサプライチェーンを含めたビジネス全体をカーボンニュートラルにする計画を立てている。  その意味でいえば、ベントレーはいま大変革期のまっただなかにいるわけだが、本格的な電動時代を迎えてもベントレーのラグジュアリーな世界観はいささかも揺らぐことがないはず。さらにいえば、他のラグジュアリーブランドとの差別化を図るうえで、マリナーの活躍がさらに重要になることも間違いがないだろう。今回のクルー訪問を終えて、私はそんな印象を強く抱いた。

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