1964年8月2日、ホンダ初のF1レースはニュルブルクリンク
今年、F1参戦60周年を迎えたホンダは、その足跡を偲ぶため、イギリスとアメリカで開催されたモータースポーツ関連イベントに参加。彼らの独創的なテクノロジーとチャレンジスピリットを国内外の人々に改めて印象づけた。
アイルトン・セナ、アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル・・・何人ものスタードライバーがホンダのマシンを操り、世界最速の称号を手にしてきた。
そんなホンダが初めてF1に挑んだのは、1964年8月2日にニュルブルクリンクで開催されたドイツGPでのこと。これに先立ち、ホンダはF1エンジン開発の具体的な検討を1962年ごろに始めていた。
すでに二輪の世界GPでトップクラスの実力を養っていたホンダは、そこで得た超高回転エンジン技術を駆使し、排気量1.5リッター V12エンジンの設計に着手。当初はイギリスの名門ロータスにこれを供給する計画だったが、長年フォードと深い関係にあったロータスは直前になってホンダとの約束を反故にする。
それでもホンダはF1参戦計画を完遂するため、急遽、シャシーを自社開発する方針を固める。まだ4輪車の生産を始めたばかりだったホンダにとっては、F1エンジンの開発だけでもかなりの困難が伴ったはずだが、これにくわえてシャシーまで自らの手で生み出すことになったのだ。しかも、実戦投入までの期間はわずか1〜2年しか残されていない。こうして完成したRA271を携えて、彼らはヨーロッパの地を目指したわけだが、それが想像を絶する苦難の船出であったことは想像に難くない。
それでもホンダはデビュー戦で完走の記録を残すとともに、続くイタリアGP、アメリカGPにも参戦し、64年シーズンを締め括ったのである。
翌65年は、RA271の改良型であるRA272を投入するいっぽう、若手ドライバーのロニー・バックナムにくわえて経験豊富なリッチー・ギンサーを迎えた2台体制を構築。新シャシーを開発する都合で開幕戦南アフリカGPこそスキップしたものの、第2戦モナコGP以降の全戦に挑んだのである。
ホンダにとってシーズン2戦目となるベルギーGPでは予選でギンサーが4位に食い込むなど、RA272はトップクラスの実力を示したものの、立て続けにトラブルに見舞われ、速さを成績に結びつけることができなかった。それでもホンダはシーズン途中にギンサーのみの1台体制に絞り込んでマシンの熟成を図ると、第8戦イタリアGPからはバックナムを含む2台体制に復帰。さらには、海抜2263mのメキシコシティで開催されるメキシコGPには、その標高や気候にあわせたマシン・セッティングを事前に実施した結果、ギンサーはブラバムやロータスといった強豪を破って初優勝を遂げたのだ。
今年、イギリスのグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード、そしてアメリカのラグナセカ・サーキットで開催されるモントレー・モータースポーツ・リユニオンの各主催者から招待を受けたホンダは、ギンサーがメキシコGPで操ったRA272をそれぞれの会場に持ち込んでデモ走行を実施。60周年を迎えたホンダF1の歴史を改めて振り返ったのである。
しかも、グッドウッドには、RA272を管理するホンダ・コレクションホールのテストドライバーを務める宮城 光だけでなく、現役F1ドライバーの角田裕毅にもステアリングを託したほか、同じ会場にホンダ・モータースポーツの原点というべき1959年マン島TTレースに参戦した二輪レーサーのRC142も持ち込むことで、連綿と続くホンダ・モータースポーツ活動の過去、現在、未来を結びつけたのである。
いっぽう、モントレーでは宮城ひとりがRA272を駆り、優勝したメキシコGP以来となるアメリカ大陸への凱旋を果たした。ちなみに、RA272は同じ1965年にニューヨーク近郊のワトキンスグレンで開催されたアメリカGPにも参加しているほか、ギンサーとバックナムはともにアメリカ出身のドライバーであるなど、この国とは意外なほど深い縁がある。
グッドウッドでもモントレーでも、RA272はエンジン始動のデモンストレーションを行ない、その悲しく泣き叫ぶようなエグゾーストサウンドをファンに披露。グッドウッドでのデモ走行ではエンジン始動に手間取るなどの苦難を強いられたものの、いずれのイベントでもRA272は無事にデモ走行を終え、その使命を果たしたのである。
現在、ホンダのF1活動は子会社のホンダ・レーシング(HRC)に移管されるとともに、彼らが手がけたパワーユニットはレッドブル・パワートレインズの手を経てレッドブル・レーシングとビザ・キャッシュアップRB F1チームに供給されているが、60年前から今日までF1に挑んでいる自動車メーカーは、フェラーリを除けばホンダただ1社だけである。
この事実を、ひとりの日本人として誇りに思いたい。