歴史がふたたび動き出した
森鷗外など著名な文化人に愛され、江戸時代から続く老舗旅館「白井屋旅館」が惜しまれつつ、その歴史に幕を下ろしたのは2008年。その後、取り壊しの危機にあったこのホテルを、アイウエアブランド「JINS」のジンズホールディングス代表取締役CEOであり起業家の田中仁氏が私財を投じて購入。田中氏の地元である前橋の地域創生への熱意に建築家・藤本壮介氏が応え、白井屋ホテルへの再生プロジェクトが幕を開けた。
そのコンセプトもまた印象的なもので、「アートで五感を満たすホテル」を謳い、第一線で活躍する世界中のアーティストやデザイナーたちと、館内の共有施設だけではなく、客室までコラボレーションするという徹底したこだわりようだ。クリエイターと作り上げた3つのスペシャルルームのほかに、21の客室には、異なるアーティストの作品が飾られている、そういう意味では全ての客室が唯一無二の空間作品群なのである。
柔らかな光が注ぐパサージュを歩いて、改装を経てつくられたヘリテージタワーへ。建物のシンボルともいえる空中回廊を持つ大きな吹き抜けには、空間を空へと貫く支柱に沿って縦横無尽に光るパイプが走る。金沢21世紀美術館の「スイミングプール」という作品でも知られるレアンドロ・エルリッヒによるインスタレーション「ライティング・パイプ」だ。他にもレセプションの杉本博司の作品、エレベーターボックス内の小野田賢三によるデジタルを静止画像にした作品など、客室に向かうまでもアートが建物のあちこちに介在することで、目に楽しく常に空間鮮度が高く感じる不思議な体験ができる。
唯一無二のホテルステイ
客室については前述の通りで、数多くのアーティストとの偶然(必然)の邂逅の場であるが、そのなかでもロンドンのプロダクトデザイナー ジャスパー・モリソンとのコラボレーションルームはユニークだ。モリソンのスーパーノーマルという独自の哲学で設計された室内は、温もりのある木の床材と氏のデザインによる家具がシンプルに調和するとともに、檜風呂も完備する日本人がホッとするような空間。しかし、折れ戸を開ければ、前述のエルリッヒの「ライティング・パイプ」が縦横無尽に走る吹き抜けの空間が現れ、夕暮れのホテルの空中回廊を美しく浮かび上がらせる幻想的なシーンに出会える。
建物は旧白井屋旅館のコンクリートの躯体を活かしたヘリテージタワーにくわえて新たに建築されたグリーンタワーの2棟からなる。ヘリテージタワーにはローレンス・ウィナーの「言語」を使ったカラフルなアート作品が掲げられており、小さな2つの丘のような建物を緑が覆うグリーンタワーには、落ち着いた雰囲気のベーカリーやパティスリーが軒を連ねるなど、それぞれが異なる表情を見せる。
そして、このホテルにおいて、目に楽しく、心震わすのは建築とクリエイターの作品だけではない。メインダイニング「SHIROIYA the RESTAURANT」は、世界的な美食ガイド「ゴエ・ミ・ヨ」でイノベーティブレストランに3年連続で選出されるなど、泊まらずとも食べにいくだけでも価値がある場所だ。群馬県出身のシェフの片山ひろ氏は青山のミシュラン店「フロリレージュ」ほか、国内外の名店で長年研鑽を積み、群馬の食材を使った新境地「上州キュイジーヌ」を掲げて、伝統的な郷土料理の手法を用いながらもモダンなフレンチを提供している。またソムリエの児島由光氏によるアルコールだけではなく、ノンアルコールもあるドリンクのペアリングも人気だそう。
300年の歴史を湛え、地元の人々に愛されてきた前橋のホテル(旅館)は、世界のアートと食が交差する唯一無二の空間へと変貌し、新しい時間を刻み始めている。今年も残るところあとわずか。年末に少し刺激的なドライブ旅行はいかがだろうか。