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スカイラインは、いつの時代も先頭を走ってきた

1957年に発表された、初代プリンス・スカイライン。1961年のマイナーチェンジで、直列4気筒OHVエンジンの排気量が1862ccに拡大された。

1964年5月3日、鈴鹿サーキットでスカイライン伝説が生まれた。

スカイラインは、日産自動車のクルマではなかった──。

こう書くと、意外だと思われる方が多いかもしれない。スカイラインは、昭和の高度経済成長期に日産自動車を代表するモデルとして名を馳せたけれど、そのオリジンは、別の場所にあった。はたして、スカイラインの歴史を遡ることは、日産自動車と日本の自動車産業が歩んで来た道程を振り返ることにほかならない。

第二次大戦終戦直後に、時計の針を戻してみたい。

日本の自動車産業は、第二次大戦の影響で欧米の自動車メーカーから技術的に大きな遅れをとった。そこで日本政府が、日本のメーカーとヨーロッパのメーカーの橋渡し役を務め、ノックダウン生産を行うことで技術力を吸収することになった。日野がルノー公団(当時)、日産がオースチン、いすゞがヒルマンと提携した。

ここで、あくまで自社で開発するという独自路線を選んだのがトヨタとプリンス自動車だった。プリンスの前身は、大戦中に輸送機や練習機の製造を行った立川飛行機と中島飛行機。優秀な技術者集団で、プリンスと枝分かれした一派は、後のスバルの中軸を担った。

プリンスは、飛行機の開発で培った技術力をベースに先進的なモデルを発表、クルマ好きから支持されるようになる。そのうちの1台が、1957年に登場したプリンス・スカイラインだった。リアに採用されたドディオン・アクスルや4段MTなど、同時期のトヨタ車が3段MTだったことを思うと、スペック的には明らかに進んでいた。

スカイラインというネーミングは、「山並みと青空を区切る稜線」に由来するとされる。諸説あるけれど、開発責任者の櫻井眞一郎が北アルプスで見た白銀と青空の組み合わせに感動して社内の社名公募に投稿、それが採用されたというストーリーの信憑性が高いとされている。

プリンス・スカイラインは、1963年にフルモデルチェンジを受け、第2世代へと進化する。そしてとあるレースが、スカイラインの地位が確立されるきっかけとなる。

2代目スカイラインのノーズを伸ばして2ℓエンジンを搭載した、スカイライン2000GT。

1964年5月3日、鈴鹿サーキットで第2回日本グランプリが開催された。このレースに向けてプリンスは、スカイライン1500のノーズを200mm延長してグロリア用の2ℓエンジンを押し込むという荒業に出た。これが100台限定で生産されたスカイライン2000GTで、後の“スカG”の原点となるモデルだった。

日本グランプリのGTⅡというカテゴリーのレースで、スカイライン2000GTのステアリングホイールを握ったのは生沢徹。はたして生沢は、式場壮吉のドライブでトップを走っていたポルシェ904をヘアピンで抜き去ったのだ。生沢のスカイラインがポルシェの前を走ったのはほんのわずかな時間であったけれど、乱暴に現在の出来事に例えれば、市販の日産GT-RでF1マシンをオーバーテイクするようなもので、鈴鹿に駆けつけたファンは熱狂した。

こうして、スカイライン伝説が生まれた。

1964年に鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリ。この時期、レースの勝敗が売上に直結することから、自動車メーカー各社はモータースポーツに積極的に参加した。

GT-Rが大暴れした時代

ところが、同じ時期に日本の自動車産業に激震が走る。戦後の日本の自動車産業が急成長を遂げたのは、輸入制限をはじめとする政府の保護があったからだ。1967年には、西ドイツ(当時)を抜いて、アメリカに次ぐ世界第2位の生産台数を誇る自動車大国になっている。

けれども、自動車大国の日本が市場を閉ざしていることに世界中から批判が集まり、1965年10月には完成乗用車輸入自由化をすることが決まった。

いよいよ日本市場がオープンになることを受け、日本国内では欧米の列強に対抗するために、国内の自動車産業の再編成を行うべきだという議論が巻き起こった。結果、通産省(当時)は、シェア2位だった日産自動車と4位のプリンス自動車の合併を画策した。こうして、1966年8月、日産とプリンスがひとつになった新生日産自動車がスタートすることになった。

スカイラインも、1966年10月のマイナーチェンジを機に、ニッサン・プリンス・スカイランと正式名称が改められた。

“箱スカ”の愛称で知られる3代目スカイラインは1968年にデビュー。写真は最高性能版のスカイライン2000GT-R。モータースポーツ用に開発したエンジンをデチューンして搭載した。

1968年、第3世代に移行するフルモデルチェンジのタイミングで、車名はニッサン・スカイラインに変わる。ただし、プリンス自動車の傑作とされるG15エンジンは継承した。

“箱スカ”の愛称で知られる3代目スカイラインは、サーキットで大暴れをする。49連勝を含む通算50勝を挙げ、スカイライン神話を確立した。

連戦連勝の立役者が、レーシングプロトタイプのニッサンR380用のエンジンをデチューンしたS20型2ℓ直列6気筒DOHC24バルブエンジン。カタログ値では、160psを発生、最高速度は200km/hとある。

このエンジンを積んだグレードがスカイライン2000GT-Rで、ここからGT-Rのストーリーがスタートする。

このS20型エンジンを積んだGT-Rは、第4世代の通称“ケンメリ”にも設定された。ただし、ケンメリGT-Rの生産台数は197台(195台という説もあり)と言われており、その希少性の高さから、現在では億を超える価格がつく個体もある。

その希少性の高さから、相場が高騰している“ケンメリ”GT-R。

この後、GT-Rというグレードは、しばらくの間、姿を消す。1970年代の2度にわたるオイルショックと、環境問題への意識の高まりから、高性能車よりも、低燃費、低排出ガスといった環境にやさしい車両の開発にシフトしたことが、大きな理由だ。

“鉄仮面”というニックネームで呼ばれる、6代目のR30型スカイライン。この時期は、GT-Rというグレードは存在しなかった。

別の道を歩むようになったスカイラインとGT-R

1989年、8代目のR32型スカイラインで、GT-Rの名称が復活する。R32型スカイラインを語るには、当時の日本の好景気にふれないわけにはいかないだろう。

1985年のプラザ合意により、1ドル=220〜250円程度で推移していた為替相場が円高に振れ、同年末には200円前後へと急速な円高が進んだ。円高は輸出主体の日本の産業に不利で、そこで政府は公定歩合を戦後最低の2.5%に引き下げた。

これにより、資金調達が容易になり、日本中で“金余り現象”が見られるようになる。これがバブル経済で、1980年1月には6500円台から6700円台で推移していた日経平均株価が、1989年の大納会では、当時の史上最高である3万8915円を記録した。

好景気は、ふたつの面から高性能車を生んだ。ひとつは、自動車メーカーが潤沢な開発資金を投入できること。もうひとつは、消費者が高い付加価値の高額商品を買えること。この両輪が噛み合い、1980年代後半から90年代初頭にかけて、国産のエポックメイキングなモデルが相次いで発表された。

1989年に発表されたR32型日産スカイラインGT-R。ツインターボの圧倒的なパワーと、そのパワーを4輪に振り分ける4駆システムの組み合わせで実現したパフォーマンスによって、世界を驚かせた。

そのうちのひとつがR32型日産スカイラインGT-Rで、直列6気筒ツインターボのRB26DETT型エンジンの最高出力は280ps、この大パワーを先進的なフルタイム4輪駆動システムが緻密に4本のタイヤに分配した。欧米のコピーや物真似ではない、日産独自のスーパースポーツが、ここに誕生した。

2007年、日産スカイラインとは別のモデルという形で、日産GT-Rが発表される。GT-Rが独立したブランドになり、ここからスカイラインとGT-Rは別の道を歩むことになる。

このR35型日産GT-Rは、トランスミッションを車体後方に配置して重量配分を適正化するトランスアクスルを採用するなど、妥協を排し、細部まで徹底的にこだわって作り込まれたモデルだった。「だった」と過去形になっているのは、2025年モデルを最後に生産が終了するとアナウンスされたからだ。

世界中を探しても似たモデルを見つけることが難しい、オリジナリティの塊のような“ジャパニーズ・スーパーカー”を惜しむ声は多い。けれども、自動ブレーキなどの先進的な運転支援システムを備えることが難しいことから、今回の決定に至った。

2007年に発表され、騒音対策などの小変更を繰り返しながら生産を続けてきた日産GT-Rも、まもなく生産終了となる。

GT-Rと袂を分かつたスカイラインであるけれど、日産の技術を結集したモデルであることは変わらなかった。2019年に、ステアリングホイールから手を放すことができる、いわゆるハンズオフを可能とした世界初の運転支援機能、「プロパイロット2.0」を搭載したのだ。

自車両の周囲360°をセンシングする技術、高精細の地図データの組み合わせから実現した技術で、「技術の日産」は健在であることを証明した。将来、自動運転が実現した暁には、スカイラインがエポックメイキングな存在だったことが明らかになるだろう。

このようにスカイラインは、日産を代表するモデルというだけでなく、日本の自動車産業を牽引する存在なのだ。スカイラインが存在しなければ、「安くて壊れないクルマを作る」というステージからジャンプアップするのに、もっと時間がかかったはずだ。

世界初の「プロパイロット2.0」で日産の技術力を世界に知らしめた、現行の日産スカイライン。

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