モータースポーツというパラレルワールド

2008年に初開催のF1シンガポールGPを訪れて、グランプリマシンが街のど真ん中を駆け抜けていった不思議な光景はいまもはっきりと憶えている。

シンガポールの中心地を周回する一周約5㎞のマリーナ・ベイ・ストリートサーキットは、レーストラックと観戦席の間は、もちろん頑丈なウォールとフェンスで仕切られているものの、目を凝らせばマシンに乗るドライバーのヘルメット越しの表情が見えるのではないかと思うほどに至近だった。

シンガポールGPはF1史上初のナイトレースが採用され、デイタイムはショッピングや観光を楽しみ、夕方からレースを楽しむという、まさしくマジックアワーだった。

到着したその日は金曜日で、早速、気温が下がり始める夕刻からのF1のプラクティスセッションへと徒歩で向かった。

セッションが始まるとやがて、都市特有の喧騒の向こう側、ビルとビルの隙間から、時折、わずかに甲高いエンジンサウンドが聞こえてくる。そして、5秒、10秒、20秒、まだか、まだか…と息を潜め、耳をそばだてて待っていると、突然、鼓膜を一突きするような、ブオンというスロットルを開けた音とともにコーナーから、ニコ・ロズベルグの乗るウィリアムズが飛び出してきて、目の前のストレートを轟音とともに走り去っていった。

それはクルマ、街、音、光、どこにもリアリティの欠片もないパラレルワールドのようで、速いはずのF1マシンが、スローモーションのように1秒、1秒ピントが合っていたように鮮明に記憶している。

12月19日に神宮外苑前で行われた「Red Bull Race Day 」。コンセプトは轟音東京。

国内最高峰レースであるSUPER GT GT500クラスに参戦するNSX GTを笹原右京選手と大湯都史樹選手が、F1に次いで速いと目されるSUPER FORMULA SF19を大津弘樹選手が、そして二輪最高峰クラスMoto GPのモンスターマシンを中上貴晶選手が轟音を放ってそれぞれ走らせた。

右よりSUPER FORMULAをドライブした大津弘樹選手、NSX GT500をドライブした大湯都史樹選手、笹原右京選手、Moto GPの中上貴晶選手。

会場に詰め掛けた約4,000人の人たちのなかには、モータースポーツをはじめて見る人もいたに違いない。本物のレーシングカーの独特のサウンドと非日常の姿、カタチが、その場所の喧騒や空気、そして景色を一気にかき混ぜて一瞬で別世界に変えてしまう、そんな感覚を持った人もいると思う。

世界最高峰のスペックともいえるスポーツカーレース「SUPER GT」のトップカテゴリーであるNSX GT GT500マシン。沿道で応援する観客との近さに注目。

いつだってファスト&ファーストで限界に挑戦するからこそ、誰も見たことのない景色を見せてくれるのがモータースポーツの魅力だろうし、クルマもアスリートと同じだと思う。

ただ、いまモータースポーツはモビリティの大転換期のうねりのなかで、居場所を探してもがいているようにも見える。

国内最高峰のフォーミュラマシンであるSUPER FORMULA SF19。フォーミュラーカーの生の迫力を体験。

私たちはこうした時代だからこそ、ミュージアム展示などのスタティックなものだけではなく、サーキットの外でレーシングカーが己の使命を全うするかのように走って、躍動する姿を多くの人たちに見てもらいたいと思っている。賛否もふくめて実像を理解してもらうことがモータースポーツの次のチャプターには必要だからだ。

Moto GPのマシンの乾いた空に駆け上がっていく心地よいサウンドが外苑の森に広がった。

いつか、日本でもイギリスの「Goodwood Festival of Speed」のような、多分に商業的な側面は存在するものの、レースではなく、老いも若きも集って人類のスピードへの挑戦を称賛する文化的な自動車イベントがこの国でも生まれればと願う。私たちもこの“スピード”が生みだす異世界が大好きだから。

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